バッハの教会カンタータや受難曲などには,当時のドイツ・ルター派教会で歌われていた聖歌(讃美歌)を比較的単純な4声体に仕上げたものがしばしば現れます。カンタータの場合たいてい最後に現れる,あの形です。
この4声体(コラール)がいったいどのように書かれているのかを,当時の音楽の根柢にあった考え方・前提(我々のそれとはさまざまな点で異なる!)に基づき,また実作の精密な分析を通して解き明かしてくれるのが,今回ご紹介するThomas Danielの著作です。なお,バッハだけでなくテレマンなど同時代人の作品も扱われています。
最初にお断りしておきますが,私はこの本をまだ全部は読んでおりません。ときどき必要に応じて部分的に読んできただけです。しかし現在いよいよ通読を始めようとしているところで,そのためまず目次をよく読み,それだけでは内容が分かりづらい場合は当該箇所の本文も少し参照しつつ,全体の把握を試みました。それで,現段階で把握できている限りのことを自分の頭にしっかりと留めるためにも,人に伝える形で書くのがよいだろう,というわけで書いているのが本稿です。
書誌情報
本稿でご紹介する本の情報を,文献表に記載するときのような形で書きますと,
Daniel, Thomas, Der Choralsatz bei Bach und seinen Zeitgenossen. Eine historische Satzlehre, Köln 2000, 32013.
となります。ドイツ語で書かれた本です。書名を訳すと『バッハおよびその同時代人たちにおけるコラール4声体:ひとつの歴史的書法教程』というところになろうかと思います1。
初版は2000年に出ており,その後2004年,2013年と改訂を重ね,現在のところ2019年の第4版が最新版です。本稿で扱うのが第3版なのは,特にこの版がよいからというわけではなくて,単に私がまだ最新版を持っていないためですので,もしご購入なさる場合は最新版をお求めください。(なお,ページ数は第3版も第4版も同じですので,修正はあっても大きな増補はないものと推測されます。)
どのような方針で書かれているか
このような研究/解説書を著すとなると,2通りの書き方が考えられるでしょう。一つは,次々とコラールを分析してみせるというもの。もう一つは,考え方・法則をシステマティックに示すというものです。この本が採っているのは後者です。ただし,最後に付録のような形で6つのコラールの分析を示してくれてもいます。
当時実際に書かれた作品がどのようになっているのかを示すことに主眼を置いている著作ですので,バッハ・コラール型の4声体を自分で書く練習をするための課題を出してくれるわけではありません。しかし自分で書くにも,より「本物」に近づけたいのであれば,本書はそのためのたいへん良質な基礎を提供してくれることでしょう2。
目次を読む
目次の原文はこちら(出版社のサイト内のPDF)で読むことができます。
本文は次の4部に分かれています。
- Systematische Grundlagen(音組織,和音や和音進行をどういう枠組みで捉えるか,といった根本的な事項)
- Satztechnik(書法〔和声法/対位法〕上の基本的な事項)
- Zeilengestaltung(コラールの各行3の和声の作られ方)
- Studien und Analysen(高度なテーマ・特殊テーマの研究,いくつかの実作の分析)
一つずつ見てゆきます。
Systematische Grundlagen
2つの章の中で,次のような,ひとつの音楽言語の根幹を成すような諸事項が取り上げられています。
- そもそも使用可能な音はどれだったか4
- 音律のこと,使用される調性の範囲
- 教会旋法がどの程度なお生きていたか(特にフリギア旋法については独立した節を立てて述べられています)
- 和声がどういう論理で動いているか,さまざまな(当時の/後世の)和声理論が当時のコラールの分析にそれぞれどの程度使い物になるか
これらのうち最後の和声理論についてですが,ラモーの根音バス(basse fondamentale)理論,機能和声理論(Funktionstheorie),音度理論(Stufenlehre),当時の通奏低音法の一部「オクターヴの規則」(regola dell’ottava)が扱われています。それから,バッハの属する後期バロック様式において格別重要な役割を果たした反復進行である5度下行型反復進行(Quintfallsequenz / descending fifth)とその起源についての節が最後にあります。
Satztechnik
3つの章の中で,次のような事項が扱われています。
- 個々の声部の音域
- 声部間の関係(配分,離隔,交叉など)
- 和音構成音の重複や省略
- 平行(連続)8度・5度,隠伏(並達)8度・5度
- 不協和音(程)・非和声音の扱い
平行(連続)については,さまざまな場合(並行か反行か,連続5度の場合一方が減5度か否か,直接か間接か,など)ごとに詳しく実例が調査されています。特に「減5度→完全5度」という形の連続5度の扱いは気になるところですが(少なくとも私にとっては),これについても,どの声部間で出るのが普通か,逆にどの声部間では一切ないか,上行・下行それぞれの場合でどうなるか,など細かく調べてくれています。
不協和音(程)・非和声音の扱いについての節は特に大切と思われるところで,なぜかといいますと,これについて考えるときの枠組みが当時と今とではいろいろと異なるからです。
Zeilengestaltung
コラール各行の和声のつけられ方について,次の5章で述べられています。
- 行の終わらせ方(さまざまな終止形,終止形以外の形)
- 行のはじめ
- 線的書法(各声部の線がどのように作られているか。コラール旋律を担当するソプラノにおいてもとの聖歌の旋律をどう変形しているかについてもここで)
- 和音連結
- 教授法のために(以上の各章で得られた認識をまとめ,実際の授業に応用するためのデモンストレーション)
Studien und Analysen
次の3章から成ります。
- 言葉と曲づけとの関係(Wort-Ton-Verhältnis)について
- 偽作問題について
- 実作の分析(バッハ4曲,バッハ作とされているもの1曲,テレマン1曲)
偽作問題はたいへん重要です。バッハのコラールは「371のコラール」として出版されて親しまれてきましたが(389曲収録している版もあります),そのうち真作であることがまず確かなのは167曲に過ぎないそうで(ほとんどはカンタータや受難曲など,大きな作品中の1つの楽章として現れるもの)5,それ以外にも書法からすると真作の可能性があるコラールは少なからずあるものの,明らかにバッハ自身の筆になるものでない6ものも多くあるということで,「バッハの様式」「バッハの書法」ということを考えるにあたってそういう作品までも例にとって考えてしまうことには当然大いに問題があると言わざるを得ません7。
この章の終わりには,真作性が確かでないBWV 253以降(BWV 299を除く)のコラールについて,書法上の特徴から「真作であってもおかしくないもの」「真作性が疑わしいもの」「おそらく偽作であるもの」それぞれの一覧が示されています。
著者について
著者はThomas Danielトーマス・ダニエルという方で(ダニエルというとファーストネームのようですが,これが名字です),ケルン音楽大学教授として音楽理論・音楽書法を長年教えていらっしゃいました。
主要著作として,16世紀から18世紀前半までの歴史的音楽書法のうちドイツの音大の授業でよく取り上げられる3つのテーマを取り上げた三部作があり,それぞれ
を扱っています(どれもけっこう分厚いです)。
なお,以上の3テーマはいずれも声楽曲の書法ですが,ルネサンス期はともかくバロック期の書法となれば,当然,器楽書法も忘れるわけにゆきません。その中でも授業でよく取り上げられるテーマといえばフーガがあるわけですが,それについてはほかの人がバッハの作品に特化した優れた教本を書いています11。
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